東端城(ひがしばたじょう)
東端城 築城年天正八年(1580年) 築城者長田尚勝 種別 平城
愛知県安城市東端町中縄手

東端城に訪問した日は2012年6月です。

東端城は、天正八年(1580年)大浜郷にて羽城の司令を務める、

長田久右衛門重元の長子尚勝が築いた。

城の構造は居館城から郭内城へ移り変わる過程にある、代表的な城郭であった。

蓮左文庫蔵の「東端城絵図」に見える、東端城の姿は連郭構造の大規模な造りであったように描かれている。

東端城が歴史の表舞台に出るのは尚勝の弟、直勝によってである。

直勝は、十三歳の時に、家康の長男、松平信康に仕えたが、天正七年(1579年)に信康が自刃すると、大浜にかえり塾居していた。

しかし、その後、十八歳の時には、家康に仕えるようになり、禄三十貫を賜った。

この時姓を、長田から永井に改め永井伝八朗直勝とした。

このお寺さんは城跡の隣にあるお寺で念空寺です。

天正十二年(1584年)直勝二十二歳の時、初陣として、小牧長久手の戦いに出陣した。

ここで直勝は、敵将池田勝入斉恒興の首を取る大殊勲をたてた、これにより東端千石の地を賜り、兄尚勝に代わって東端城城主となった。

その後、関ケ原の戦いでも戦功をあげ、従来の領土に城ケ村、高取村を合わせて、四千五十石さらに上総(かずさ)国、近江で六千石、合計一万五十石となった。
さらに大坂夏の陣では、豊臣秀頼切腹見届けの大役を務めた。この功績で、これまでの領地を改め上野国小幡で一万石、近江で二千石、笠間近在で二万石、合計三万二千石を領有し常陸(ひたち)国、笠間城の城主となった。

この時、東端城を離れ、以後この城は廃城となりました。現在城跡には城山稲荷があります。
(参考史料 日本城郭大系 現地案内板 その他雑誌)
愛知県安城市東端町中縄手
東端城に訪問した日は2012年6月です。
東端城は、天正八年(1580年)大浜郷にて羽城の司令を務める、
長田久右衛門重元の長子尚勝が築いた。
城の構造は居館城から郭内城へ移り変わる過程にある、代表的な城郭であった。
蓮左文庫蔵の「東端城絵図」に見える、東端城の姿は連郭構造の大規模な造りであったように描かれている。
東端城が歴史の表舞台に出るのは尚勝の弟、直勝によってである。
直勝は、十三歳の時に、家康の長男、松平信康に仕えたが、天正七年(1579年)に信康が自刃すると、大浜にかえり塾居していた。
しかし、その後、十八歳の時には、家康に仕えるようになり、禄三十貫を賜った。
この時姓を、長田から永井に改め永井伝八朗直勝とした。
このお寺さんは城跡の隣にあるお寺で念空寺です。
天正十二年(1584年)直勝二十二歳の時、初陣として、小牧長久手の戦いに出陣した。
ここで直勝は、敵将池田勝入斉恒興の首を取る大殊勲をたてた、これにより東端千石の地を賜り、兄尚勝に代わって東端城城主となった。
その後、関ケ原の戦いでも戦功をあげ、従来の領土に城ケ村、高取村を合わせて、四千五十石さらに上総(かずさ)国、近江で六千石、合計一万五十石となった。
さらに大坂夏の陣では、豊臣秀頼切腹見届けの大役を務めた。この功績で、これまでの領地を改め上野国小幡で一万石、近江で二千石、笠間近在で二万石、合計三万二千石を領有し常陸(ひたち)国、笠間城の城主となった。
この時、東端城を離れ、以後この城は廃城となりました。現在城跡には城山稲荷があります。
(参考史料 日本城郭大系 現地案内板 その他雑誌)
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