勝幡城(しょばたじょう)

勝幡城 築城年永正年間(1504年~1520年) 築城者織田信定 種別 平城
    愛知県稲沢市平和町六輪城之内

   勝幡城には2013年12月に訪問しました。
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信長の家である。弾正忠家は、清洲の大和守家の三人の奉行の末席にあった。信長の祖父信定は中島郡の南に位置する勝幡城に城を築いたのは永正元年(1504年)頃でした。
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当時の勝幡城は東西百十四間、南北百二十間の城でした。
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本丸は東西二十九間、南北四十三間、高さ二間幅三間の土塁と幅最大二十五間の二重の水堀に囲まれていました。
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大永四年(1524年)頃、勝幡の南西三キロの所にある津島を手にいれました。
当時津島は津島神社の門前町、そして津島湊として大いに栄え、その財力を背景に弾正忠家は次第に力を付けていきました。
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信長の父、信秀が信定の後を継いだのは亨禄元年(1528年)頃でした。
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信秀は愛知郡の今川勢力を排除し、愛知郡を手に入れ、そして春日井郡に深く侵攻していった隣国三河の松平清康(徳川家康の祖父)と戦い次第に失地を回復していきました。そして信秀は主家である大和守家や伊勢守家を凌ぐ力を持ち、尾張の土豪、地侍から絶大な信頼を得て尾張の盟主となっていきました。
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しかし信秀の力は尾張国内では盤石なものではありませんでした。主家である織田大和守家や伊勢守家がある程度の力を持っていたからです。そして彼は信秀を少なからず快く思っていませんでした。
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織田家は越前(福井県)の武生の西にある織田(おだ)という町にある織田神社の神官でした。応永年間越前の守護であった斯波義重が尾張の守護を兼ねることになり、織田荘の庄官であった織田常松が尾張の守護代として派遣されました。
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織田常松には常竹という弟(子供であるという説も)がいました。常松は岩倉の織田伊勢守祖先であり、常竹は清洲の織田大和守家の祖先です。
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尾張の国は長い間二つの織田氏によって支配されてきました。一般に岩倉の伊勢守家は尾張の上四郡を支配し、清洲の大和守家は下四郡を支配したと言われています。
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この勝幡城跡地は信長の祖父織田信定公が「天の利」「地の利」「和の創造」を実行する拠点と決め、津島湊と尾張国府(稲沢市)の松下とを三宅川で往来し、尾張西部を手中とした。
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信長の父信秀公が津島を拠点にして勢力を拡大し巨万の富を権勢拡大に使い尾張の雄となった。信長の誕生は天文三年(1534年)五月、平手政秀公による養育で「うつけ」として就業し情報を万人よりもらい天下人となり平定に努めた。
(参考史料 日本城郭大系 現地案内板 その他雑誌)

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